学会評
ゆまにすと
戦国史研究会第534回例会
学会評
二〇二五年四月一九日、大正大学巣鴨キャンパスにおいて、戦国史研究会第五三四回例会が催された。報告者は松村響氏で、論題は「越後赤田斎藤氏の基礎的研究」である。赤田斎藤氏は越後国刈羽郡赤田(新潟県刈羽村)に根付いた士族であり、中世後期には赤田城(刈羽村)を拠点とする領主権力に発展した存在とされる。
越後国領主権力について、矢田俊文氏は、以下のように評価している。
矢田氏は各国の地域権力を「戦国領主」と規定し、大名権力からの独立性を強調している部分にある。矢田氏の提起した「戦国領主」は、現在の研究水準に照らすと「国衆」権力に置き換えられるものと考えられる。
この「国衆」に関して、少し触れておきたい。国衆の定義としては、大名は国衆に軍事的安全を保障し、代わりに国衆は大名に軍事力を提供する。基本的には被官と異なり、内政に無関与で大名の家臣団(いわゆる「家中」)には包摂されないとされる(黒田二〇一五など)。また、およそ一郡ないしそれ以上の規模で、一円的・排他的な領国を形成し、一族や従来からの被官にとどまらず、周辺領主をも包摂して、領国内のすべての領主層を一元的な主従制・知行制による家臣団を編成し、その領国を全くの自力によって統治する領域権力のことを指す(黒田二〇二二)。
越後国衆に関する研究は、これまでに高梨氏・北条氏、毛利安田氏の研究があり(花岡二〇一八・丸島二〇一八など)、さらに下越地方の揚北衆(阿賀野川以北の国衆)に関しても古くから指摘されている(羽下一九八四・黒川一九八四など)。しかし、越後における国衆・家臣団の研究は未だ未確定の人物要素が多くさらなる研究の蓄積が必要である。
今回の松村氏による報告は、これらの先行研究を踏まえ、次のような作業を行ったものである。
赤田斎藤氏の系譜は「朝信・清信・定信・頼信・昌信・定信・朝信・景信」となっている。第一章では、この系譜関係について、初代朝信から清信について検証し、「善照寺増弥寺領段銭等注文」より朝信の系統から清信の系統へ斎藤氏当主の座が移行した可能性を指摘した。つまり、清信は朝信からみて傍流となる。その後は、清信の子・定信が継ぎ、頼信の代になると守護上杉氏の評定衆に加わっていることを確認した。頼信については、定信の直系ではない可能性があり、ここで再び傍流による相続の可能性を指摘している。また、偏諱からの考察においては、清信・頼信は守護上杉氏当主の偏諱を受けていないことを明らかにし、そのことからも両名が直系からの相続ではないことの傍証となりえると結論づけた。
第二章では、戦国期越後国の政治史と赤田斎藤氏について考察している。おもに、頼信の次代昌信の動向と政治的立場について触れている。昌信は単独の発給文書がなく、その署名は守護上杉氏の被官との連署奉書のみにみられる。定実期に発生した越後永正の乱においては、昌信は長尾景長と共に揚北衆に出陣の要請をしているほか、築地資茂との取次が確認できる。昌信の政治的立場については、永正の乱の過程から、昌信は守護上杉軍の軍事指揮の一角を担っていた可能性が高いとされる。これらの検討を通じて、昌信期で赤田斎藤氏は守護上杉氏被官の立場を強めたと結論づけた。
第三章では、長尾景虎権力と斎藤朝信について検証している。朝信の初見は天文一八年(一五四九)本庄実乃書状である。翌一九年以降、朝信単独による発給文書がみえるが、要検討文書が複数あるとしている。それらは朝信花押と形状が一致しないため、偽文書ではないかと松村氏は指摘しており、同時期の朝信の活動については検討の余地があるとする。この花押の件については、質疑応答において会場からも朝信の全発給文書から花押を抽出したうえで精査していく必要がある、という指摘があった。文書の審議性については、その検討は慎重な姿勢を求められる。
朝信が本格的に文書上に名が現れ始めるのは永禄二年(一五五九)以降であり、複数の長尾氏重臣との連署奉書・制札に名を連ねるようになる。また、朝信は景虎姉妹もしくは、近親者と思われる「おまつ」と縁組をしており(片桐 二〇一七)、他の重臣と比較して一段と特別待遇となっている。この理由としては、景虎が長尾氏の根本被官ではない朝信を重用するためには長尾氏一門化する必要があったのではないかとしている。ただし、名字や書札礼がその後も変化していないことから朝信の立場は厳密には「準一門」と規定すべきとも松村氏は指摘している。このようにして長尾氏重臣となった朝信であるが、永禄四年以降、長尾氏が発給する行政文書から署名が見られなくなることから、同年までに国政の中枢から遠ざかっていた。
第四章では、長尾上杉氏の揚北衆統制と斎藤氏権力についての考察である。永禄四年以降の朝信は、おもに越中・関東方面で軍事活動を展開している。「上杉家軍役帳」によると朝信は二一三騎とある。これは一門・旗本を除けば上杉家中三番目の軍事力であり、上記の軍事活動はこのことが重用された結果であるとみる。朝信は前述のように、国政の中枢における活動は途中みられなくなったが、天正三年(一五七五)以降、再び連署状に登場する。また武田氏との取次がみられること(丸島二〇〇〇)や、蘆名盛隆の書状から蘆名氏との取次となっていた可能性も考えられるという。当該期において朝信と連署している署判者は、揚北衆の竹俣慶綱・新発田長敦である。このことから、斎藤氏が上杉氏と揚北衆を繋ぐ媒介的存在となっていたと考えられるという。
天正一〇年(一五八二)、上杉景勝は甲斐武田氏へ援軍の派遣を企図するが、朝信が出陣を渋っている様子が史料上確認される。同時期上杉家中において朝信が病であるという噂が広まっていたようである。同年以降、消息が絶えたため、まもなく死去したのではないかと考えている。次の当主としては景信の活動がみられるが、慶長二年以前に景勝の勘気を蒙り、改易されたとみられる。近世の移行と同時に上杉氏の重臣としての赤田斎藤氏は消滅したことになる。
以上の検討から、揚北衆と位置的にも近い赤田斎藤氏は時期を経て親交を深めていき、最終的には朝信が歴代当主の培った人的関係を継承し、上杉氏による揚北衆統制の役割を担った。赤田斎藤氏には他の長尾氏重臣には見られない、守護上杉氏時代からの連続性があり、これが景虎から重用される要素となったとしている。また、この赤田斎藤氏は、上杉氏権力の拡大の影響を受け、戦国期に順応する存在へと転化(国衆化)したとみている。国衆権力の形成(元亀・天正年間に国衆化)が遅かった理由は、赤田領周辺には他大名がおらず、越後国衆に囲まれている状況が大きく影響したと考えられる。このため、国衆化よりも大名被官として他国衆統制の活動が優先されたためかと指摘し、今後は謙信による守護上杉氏被官・国衆の統制方法を明らかにする作業を進めたいとし、本報告を終えた。
この国衆と被官の違いについて、質疑応答においては領主の峻別が必ずしも明確ではないという指摘もみられた。本報告において、戦国期赤田斎藤氏は国衆であるとしていたが、松村氏がたびたび指摘していたのは、被官としての活動である。国衆でありながら被官として活動(いわゆる大名家中における政治活動)をしていた事例は、たとえば甲斐武田氏における小山田氏などでみられる。だが、赤田斎藤氏は織豊期に至っても明確に領域支配を展開する国衆であったとは評価しがたい部分がある。こうなると、赤田斎藤氏は終始被官の立場にとどまっていたという見方も必要になってくるかもしれない。今後はこの定義づけの明確化がこの研究のなかで重要になってくるものである。今後、赤田斎藤氏がどのような評価を受けるのか、さらなる研究の進展に期待したい。
【参考文献】
阿部洋輔編『戦国大名論集九上杉氏の研究』(吉川弘文館、一九八四年)
片桐昭彦「謙信の家族・一族と養子たち」(福原圭一・前嶋敏編著『上杉謙信』高志書院、二〇一七年)
黒田基樹『増補改訂 戦国大名と外様国衆』(戎光祥出版、二〇一五年)
黒田基樹『国衆 戦国時代のもう一つの主役』(平凡社、二〇二二年)
戦国史研究会編『戦国時代の大名と国衆 支配・従属・自立のメカニズム』(戎光祥出版、二〇一八年)
丸島和洋「武田氏の対上杉氏外交と取次」(同著『戦国大名武田氏の権力構造』思文閣出版、二〇一一年、初出二〇〇〇年)
矢田俊文「戦国期越後国政治体制の基本構造」(本多隆成編『戦国・織豊期の権力と社会』吉川弘文館、一九九九年)
戦国史研究会第534回例会
二〇二五年五月九日 初版発行
https://humaniste.jp/blog/fpvg-e53z3i
ゆまにすと
本を開いています…
戦国史研究会第534回例会