学会評
ゆまにすと
戦国史研究会第539回例会(下)
学会評
九月六日・七日に兵庫県立歴史博物館で開催された戦国史研究会第五三九回例会のうち、今回は史料見学について触れたい。とはいっても、見学した史料は二九点にのぼり、そのすべてを紹介するほどの余裕はないので、気になった史料数点を紹介することとする。
この書状は、浦上則宗が「宮内きやう」(宮内卿)の領地を返還することを約束した書状である。本文中に「御屋かたさ満」(御屋形様)とあることから、赤松政則生前時の明応五年(一四九六)と推察される。
問題は宛所の宮内卿だが、ちょうど前日の木下報告で、赤松氏から足利将軍家の女房衆になっている女性は代々、宮内卿局と名乗っていたという指摘があった。世代的には、足利義政の妾に該当すると考えられる。また、義政妾は文明年間までしか活動がみられないため、その場合にはこの書状は文明年間(一四六九―一四八七)以前ということになる。
一方、洞松院(赤松政則の本妻)の女房衆ではないか、という可能性を指摘する声もあった。播磨に所領を持っていることから、播磨にいた女性であり京にいた女性ではないのではないかとする推察である。この場合には、長享年間(一四八七―一四八九)以降の可能性も考えられる。
女性史に関する史料は限られている。いずれの説が妥当かは確定できないが、どちらにしても戦国期権力の奥向構造を考えるうえで重要な史料といえる。
岩付城(埼玉県さいたま市)から軍勢が引いたので、在番衆を交代する旨をしたためた書状である。氏政の花押形から天正年間(一五七三―一五九二)の書状と考えられる。この期間に、年末に岩付城で軍勢が動いている時期を考えると、天正二年(一五七四)の第三次関宿合戦の後に、上杉謙信が岩付城を攻撃していることが確認される(黒田編二〇一三)。したがって、この史料も天正二年に比定される可能性が高い。
なお、本史料については、相模守氏から助言を賜った。また後日、史料紹介があると思うので、詳細な分析についてはそれをまちたい。
今井宗薫は堺の商人・今井宗久の子で、徳川家康・秀忠の側近となっていた人物である。近世初期に天下人や大名の側近を務めていた人物を出頭人と呼ぶが、基本的には武士であることが多い。しかし、千利休や後藤光次などの非武士身分の出頭人も一定数存在している。宗薫はその一人といえる。
また、政宗はこの書状で、同じく家康・秀忠に信頼されていた藤堂高虎(津藩主)にも相談したことを記している。元和年間(一六一五―一六二四)の幕府の政治構造が垣間見える史料である。
天正三年、惟任(明智)光秀は織田信長から丹波攻略を命じられる。この攻略は苦戦し、最終的に天正七年までかかっている。本史料は、丹波攻略の初期に出された史料であり、信長が丹波国衆の赤井忠家・荻野直正を赦免したことが記されている。
一般的に織田信長は、苛烈で一度敵対した武将を赦さない人物というイメージが強い。一方、最新研究では意外と赦免することも多かったことが指摘されている。この史料も、そうした最新研究の信長像を補強するものといえるだろう。
宛所の妻木頼利は交代寄合で、普請奉行などをたびたび務めている人物である。書状は、伊達政宗が細川忠利(熊本藩主。細川忠興の子)の訪問を伝える内容となっている。近世初期における国持大名同士の交流がうかがえる貴重な史料である。
【参考文献】
黒田基樹編『北条氏年表 宗瑞・氏綱・氏康・氏政・氏直』(高志書院、二〇一三年)
戦国史研究会第539回例会(下)
二〇二五年十一月二十八日 初版発行
https://humaniste.jp/blog/h-jv0nrc1ku
ゆまにすと
本を開いています…
戦国史研究会第539回例会(下)