世界史からみる美術
ゆまにすと
ウィーン分離派とはなんだったのか(2)
世界史からみる美術
世界史からみる美術、最初のテーマとして「ウィーン分離派」をとりあげる。第一回では分離派が登場した一九世紀のウィーンの政治的動向について概観した。第二回では、第一回で示したオーストリア=ハンガリー帝国のコスモポリタン主義がウィーンの都市開発にどのように反映されたかを見ていく。
前回の最後に述べたとおり、オーストリア=ハンガリー帝国はその憲法で「民族平等」を謳い、諸民族の連邦国家として産業を育成しドイツ帝国とロシア帝国という二つの大国の間で一九世紀を生き残る必要があった。必然的に、首都ウィーンには帝国各地の諸民族が流入し、従来の市域ではすべての人口を抱えきれなくなっていく。こうした需要から、オーストリア帝国末期の一八五〇年代から一九〇〇年代にかけてウィーンの再開発が国家主導で推進されていく。
また、排他的な民族主義と対峙するコスモポリタン的な近代都市としてウィーンを完成させることは、自らの帝国理念、そして帝国の存在意義を内外に知らしめるためにも必要不可欠であった。帝都ウィーンの理念を表象するために、古代ギリシア・ローマ、東ローマ帝国、神聖ローマ帝国、ハプスブルグ帝国、オスマン帝国といったウィーンとオーストリア=ハンガリー帝国領がかつて属した過去の偉大な帝国(多民族国家モデル)との連続性を意識した都市開発が推進された。最たる例としてリングシュトラーセ(Ringstraße)の整備があげられる。
リングシュトラーセ、またはリング通りは、オーストリアの首都ウィーンの中心部にある環状道路であり、一八五七年に放棄された市壁と堀の跡に造られた。

中世から近世にかけての伝統的な自治都市が市壁によって「都市の自由」を守る時代は、一九世紀の初めごろには軍事的にも経済的にも終わりを告げていた。ウィーンの場合、市壁の上はウィーン市民の散歩道となっており、かつてのオスマン軍の攻撃に備えて建造物建設が禁止されていた市壁外の空き地(グラシ, Glacis)も緑化が進んで市民の憩いの場となりつつあった。同時期にパリでは、一八五〇年代よりジョルジュ・オスマンのもとで大規模な都市改造が行われて近代都市へと脱皮し、フランスとその指導者ナポレオン三世の威光をヨーロッパ中に示していた。こうしたなか、ウィーンも市壁を撤去し、近代都市へと生まれ変わることで、オーストリア帝国の威光を示すとともに工業化にともなう人口集中に対応する必要があったのである。
また、鉄道網を整備するうえでも市壁が原因となって線路を市の中心部まで敷設できないという問題が発生していた。また、帝国支配層にとっても、一九世紀初頭の時点で城壁は支配の維持のうえで軍事的に無力なものとなっていた。一八四八年の革命の際には城壁が革命派にバリケードとして利用され、鎮圧に手間取るなど、むしろ弊害ともなった。
一八五八年より、オーストリア国家の主導で都市計画の公募が開始され、年末には全応募案がウィーン市民に公開された。この際、ウィーン市の介入はできる限り排除され、主導権は常に国家が握っていた。市壁の取り壊しは、かつて皇帝にすら叛旗を掲げたウィーンの自治が崩されていく象徴でもあった。その点で、リングシュトラーセの建設とそれにともなう都市改造計画は、国家に対して自律的であった市民が徐々に国民として組み込まれていく過程でもあった。
一八六七年のオーストリア=ハンガリー帝国の成立により、ますますウィーンは「自治都市ウィーン」や「ハプスブルグ家のウィーン」ではなく、多民族国家の首都としての性格が求められるようになった。その結果、首都ウィーンにはオーストリア系の軍人や貴族の戦勝記念碑に代わって文人や芸術家たちの銅像が建てられることとなり、リングシュトラーセには壮大な公共建築が次々と建設された。ウィーン宮廷歌劇場(現在の国立歌劇場)をはじめとして、ウィーン市庁舎、国会議事堂、証券取引所、ウィーン大学、美術館、自然史博物館などの博物館、ブルク劇場、ウィーン楽友協会などの公共建造物、そして裕福なブルジョワたちの数多くの豪華な建物が相次いで建設された。それらはヘレニズム様式(国会議事堂)、ゴシック様式(市庁舎)、ネオ・バロック様式(陸軍省)など歴史上のさまざまな建築様式が時空を超えて一堂に会する、歴史主義建築を象徴する都市計画に基づいている。つまり、美術史的な建築ラッシュであり、多くの国営事業がウィーンにはあった。こうした国営事業の需要がウィーン分離派の芸術家たちの足がかりになったことは間違いない。
次回はこの都市開発の一環で設立された国立オーストリア芸術産業博物館(k. k. Österreichisches Museum für Kunst und Industrie:現 MAK)を中心に、世紀末ウィーンで行われた画期的な美術教育について触れる予定である。
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【参考文献】
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古川俊英「象徴主義絵画における「宿命の女」をめぐって :ラファエル前派,モロー,クノップフ」、北海道教育大学編『北海道教育大学紀要』第四三巻、北海道教育大学、一九九三年
フランク・ウィットフォード『クリムト』関根秀一/吉岡昌紀/片切頼嗣/越智博美訳、洋版出版、一九九三年
ヘッダー画像:ブルグ劇場
ウィーン分離派とはなんだったのか(2)
二〇二五年二月七日 初版発行
https://humaniste.jp/blog/ivl_c2p54u4
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本を開いています…
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