展覧会評
ゆまにすと
「戦国武将書翰集」の世界(上)
展覧会評
水戸市立博物館では、二〇二五年三月二二日から五月二五日にかけて「特別公開『戦国武将書翰集』の世界」が開催された。この書翰集は、宛先が異なる一五点の古文書が一点の巻子に仕立てられていたことから、江戸時代から昭和時代初頭までのいずれかの段階で、各地に分散した古文書と推定されている。二〇二三年四月に水戸市内の私宅で発見され、東京大学史料編纂所准教授である村井祐樹氏の協力のもと約二年の調査を経て、今回公開されることとなった。また私が訪問した五月一八日には、学芸員の藤井達也氏によるギャラリートークが行われた。
以下、全一五点の書状を紹介する。なお展覧会と図録では書状の順番が異なり、本稿では図録の順番に従うことをあらかじめお断りしておく。
この書状は、斎藤道三が織田信長について述べた史料である。そこでは、道三は為平(尾張国衆)に「(信長は)若造なので、色々と至らない点ばかりではあると思いますが、末永くお付き合いいただくことが大切です」と述べている。道三と織田信長といえば、天文二一年頃の四月下旬に聖徳寺(愛知県名古屋市)で会見したことがよく知られ、そのときに道三が信長の器量を見抜いたという逸話は大変有名である。
しかし、典拠となっている『信長公記』はあくまでも二次史料であり、年代の誤りが多い首巻部分の記述を基にしたものであった。今までは道三の書状が数少ないこともあり、道三が信長について述べた書状はまったくなく、その関係については推測するしかなかった。この書状は、道三と信長の関係の一端が垣間見える、きわめて貴重な史料である。
これは、三吉隆亮(備後国衆)が小早川隆景(毛利元就の三男)に状況を説明している書状である。前欠であるため、全文が分からないところは残念な部分であるが、永禄後半頃の伯耆国情勢がうかがえるものとなっている。重要部分は、「伯耆国の八橋城(鳥取県琴浦町)の衆が南条(宗勝)と戦闘を行ったとのことです。現在どの方面も平穏な状況なので、大変よろしくないことです。取り鎮めるようにと(両者に)伝えたという旨が、一昨日(毛利)元就様より伝えられました。(中略)次に、下口(九州方面)のことについては、その後どのようなご報告があったでしょうか。これもお知らせください」との記述である。
この書状の年代比定は、永禄七年~一一年となっているが、「どの方面も平穏な状況」という記述から、戦闘があまり行われていない時期ということになる。この時期の毛利氏や周囲の情勢を多角的に見ることで、年代比定が進んでいくと思われ、今後の研究に期待したい。
この書状のおもな内容は、「出雲国の件(尼子氏の残党の蜂起)が落着したとのこと、その評判は素晴らしいものです。(義昭の)上洛について、忠節を尽くすよう元就に伝えました。隆景にも思いがあります。ことさらの尽力を頼みます」であり、上洛をめざしていた足利義昭が、毛利氏に支援を求めていたことがわかる。義昭が毛利氏に上洛の支援要請をしていた書状は、吉川元春宛だけが知られていたが、今回の書状の発見で、隆景にも送っていたことが判明した。
この書状で正頼は隆景に、「このたび豊前国の神田(刈田松山城、福岡県苅田町)において、(ご連絡)を申し承りました。周布氏(石見国衆)の家臣が依頼してきたことについては、元就へ雑掌(役人)を遣わして申し伝えました。幸い(元就が)あなたのところにご帰陣されるということなので、よろしくお口添えをお願いします」と述べており、正頼の九州への出陣が確認される。吉見氏は、石見国西端に勢力を有した領主で、北に勢力を有する益田氏とたびたび抗争するライバルであった。ただ永禄五年に正頼が、長門国阿武郡須佐(山口県萩市)を攻略して以降、吉見氏と益田氏の抗争は行われていない。その後、正頼は毛利氏と大友氏の戦争に際して赤間関(山口県下関市)に在陣するなど、毛利氏と関係を深めている。そのような中で出された書状が、この書状である。
この書状のおもしろい点は、昭元(阿波などの守護)が「昭元」と署名せずに、「元」と署名していることである。元亀二年(一五七一)に足利義昭の編諱を受けて「昭元」と称しているが、元亀四年二月に義昭が挙兵したため、義昭とのつながりの象徴である「昭」の字の使用を、横田の上位者である信長に配慮して憚っている。
この書状には、おもに小早川隆景の病気のことについて、記している。従来、この時期の隆景の病気は確認されていなかったが、今回の発見で、隆景の容体が一時危ない状況にあったことがわかった。
この頃、長宗我部氏と毛利氏は水面下で連絡を取っていたことが従来想定されていたが、長宗我部氏と毛利氏の直接的なやり取りを示した史料はなかった。今回の発見で、水面下で交渉していたことが確定された。おもな内容は、「しばらく思うところを伝えず、申し訳なく思っています。備前国での(宇喜多氏による)再乱を早く取り鎮めたことは重要です。このたび、豊筑(豊前と筑前)についての(大友氏との)協議はいかがでしたでしょうか」といったものである。また、しばらく連絡を取っていなかったとある記述に注目したい。毛利勢は天正五年に讃岐国で軍事行動を行っていて、同じく讃岐国で軍事行動をしていた元親と衝突が見られないことから、そのときに両者は連絡を取っていた可能性がある。
この書状で、光秀は多羅尾光信(近江国衆)に「昨日安土城にいらっしゃったとのこと、ご苦労様でした。私も御用で(安土城に)参上しました。因幡国の鳥取攻めの援軍として、但馬(・因幡)の国境まで出兵するよう命じられたので、急いで琵琶湖を渡り、今日丹波国に着きました。(途中抜け)安土でお会いできなかったのは残念でした」ということを伝えている。この書状から、光秀は鳥取方面への出陣を命じられ、丹波国へ下り因幡国をめざして田島方面まで向かう予定であったことがわかる。従来天正九年時の光秀の軍事行動は、不明な点が多かったが、今回の書状でその一端が明らかとなった。
※今回は主に、水戸市立博物館で配られていた「「戦国武将書翰集」の釈文と大意」というプリントを参照した。その他の参考文献は以下の通りである。
【参考文献】
天野忠幸編『戦国武将列伝八 畿内編【下】』(戎光祥出版、二〇二三年)
柴裕之・小川雄編『戦国武将列伝六 東海編』(戎光祥出版、二〇二四年)
平井上総『長宗我部元親 シリーズ・織豊大名の研究 第一巻』(戎光祥出版、二〇一四年)
丸山裕之『図説室町幕府 増補改訂版』(戎光祥出版、二〇二四年)
光成準治編『戦国武将列伝九 中国編』(戎光祥出版、二〇二三年)
「戦国武将書翰集」の世界(上)
二〇二五年六月二十七日 初版発行
https://humaniste.jp/blog/jkrs3rnk-hj
ゆまにすと
本を開いています…
「戦国武将書翰集」の世界(上)