コラム
ゆまにすと
山崎の戦いの新説について(上)
コラム
「山崎の戦いに遅参した羽柴秀吉」というタイトルを目にしたとき、一般にどのような状況を想像するだろうか。
普通であれば、山崎の戦いという合戦に秀吉が遅れたのだと思うはずである。その先入観を持ったまま本論考をざっと眺めると、秀吉は開戦時に山崎にはおらず、どうやらそれをごまかすために書状の案文を書き直したりしているらしいという印象を受けるかもしれない。
ところが、この論考を少しでもじっくり読み解いていくと、少々おかしな点が見えてくる。
本論考が提示する史料を見るだけでも、秀吉は山崎の戦いの開戦時、大将である織田三七(信孝)と行動を共にしている。しかも、秀吉がその場所にいたのは、大坂方面から移動してくる信孝をそこで待っていたからである。
まず、先着して大将を待っていた状況を、はたして「遅参」と呼べるのだろうか。さらに奇妙なのは、本論考において「遅参を伏せる意図が見える」とされた書状(案文)の宛先が、その信孝の家臣であり、実質的に信孝本人へ向けられたものである点だ。当日、合流して行動を共にしていた相手に対して、自分の遅参をごまかすような書状を送るものだろうか。
そもそも「遅参」とは、決められた刻限や、先に参じた他者との比較があってはじめて成り立つ言葉のはずだ。ところが本論考自身の復元によれば、秀吉方は光秀が勝龍寺城での籠城戦に持ち込むと予想しており、本論考が紹介する新出文書も、決戦の想定を「明日」――すなわち一四日の西岡進出――としている。一三日に合戦の予定はそもそもなく、開戦は光秀が予想を裏切って打って出たことによる予定外の事態であった。
予定されていた合戦に遅れたのではなく、予定外の開戦に本隊の出る幕がなかったのである(その後、本隊は合流している)。あらかじめ大将となる信孝を待ちこれを迎え、予定通りに行動していた人物に対して、「遅参」という評価語を当てることには少々違和感を覚える。
どうやら、筆者は秀吉は山崎の宝積寺(京都府大山崎町。天王山に存在する)にいたというのが通俗的な説であるという前提のもとで、本論考を執筆しているようである(これについては、同筆者によるこの論文の対になる紀要論文があるため後述する)。しかし私の知る限り、一般には山崎の戦いにおける秀吉の本陣は、山崎から八キロメートルほど離れた「天神の馬場(大阪府高槻市)」にあったと言われることが多い。
山崎の戦いの秀吉本陣の歴史説明板も宝積寺にはなく、天神の馬場にはある。また「天神の馬場」の天神の名の元である上宮天満宮には、ここに本陣を置いた秀吉が寄進したという社殿が平成八年(一九九六)まで残っており、賽銭泥棒の少年らによる放火で焼けてしまったので印象に残っている方も多いのではないだろうか。そして、秀吉本人が山崎の合戦初期に後方にいたことは、漫画などでもしばしば描写される光景である。
たしかに、これまでも研究では秀吉が山崎にいたとは書かれてきた。しかし、そこに本陣の場所の詳細な記述は見つけることができず、図解などではなんとなく後方にかかれている。そして実際に本陣と表されてきたのは天神の馬場であった。前線から八キロほど離れているだけであり、本隊も夜には合流しているのでこれまでとくに深く問題とされてきていなかったものと思われる。
「山崎の戦いに遅参した羽柴秀吉」という刺激的なタイトルは、こうした前提を踏まえたうえで、何か新たな視点を提示してくれるものと私は期待していた。
さて、山崎の戦い当日の六月一三日、織田信孝は筒井順慶にあてて天神馬場にいるという書状を出している(「我々陣取天神馬場候」)。そして、その副状には秀吉と丹羽長秀が花押を据えている。そして一〇月に書いた案文でもこの日の昼に信孝を迎えたと述べている。このことからも、六月一三日に天神の馬場に秀吉・信孝・丹羽長秀が揃っていたことは確実視して良いだろう。
ちなみに、天神の馬場はかつて織田信長が幾度か陣を張り、そこからの戦いで勝利を収めてきた場所である。山崎や決戦の地と見られていた西岡(勝龍寺城)までの距離も遠くなく、大坂からくる信孝が本陣を構えるにあたって、過去の吉例にちなんだ格好の場所だったのではないだろうか。
このように史料からも簡単に伺え、また、もともとここに本陣があったと言われることも多い。少なくとも私が確認した現地の説明板に関する限り『山崎の戦い秀吉本陣』と明示されていたのは天神の馬場であった。しかし、本論考で「実は秀吉が遅参して滞留していた」と指摘されている場所も天神の馬場なのである。
もちろん、秀吉がその場にいたか否かという些末な論点自体は、本論考の主たるテーマではないかもしれない。秀吉が書状の作成にあたり二つの案文を作成して内容を推敲している点に着目し、そこに秀吉の政治的意図を見出し、その後の政治状況の広範な理解につなげていくことこそが本来の主題であろう。では、この「推敲」とはどのようなものだったのだろうか。
二つの案文(秀吉文書五〇三号・五一二号)を比較すると、信長が秀吉を撫でた箇所が変更されており、なるほど推敲の跡がうかがえる。具体的には信長が秀吉の首を撫でたという描写が額を撫でたへと変えられているのだが、たしかに額の方がアピールが高く、そのように表現する意図があったのかもしれない。これは私の個人的な興味に基づく冗談として脇に置くとしても、これ以外にも両案文には大幅に推敲された部分が存在する。
たとえば、第一案(五〇三号)では、鳥取城攻めの最中に荒木村重が裏切り、その後に三木城攻めを行ったという時系列になっている。これが第二案(五一二号)では、播磨攻めの最中に別所長治が謀反を起こし、さらに荒木村重が謀反を起こしたという順番に訂正している。第一案の経緯は明らかに間違っており、この修正は単なる「誤りの訂正」と見るべきではないだろうか。
このように捉えると、二つの案文の関係性は、単に誤謬の多かった第一案のミスを、第二案で堅実に修正したプロセスのように見えてくる。それを踏まえたうえで、本論考で扱われている「山崎の戦い前後の行動記述」の順番を確認してみたい。
【第一案(五〇三号)の記述順】
一二日に富田に到着
一三日昼に信孝を迎える
(※ここに、本論考では言及されていない記述が挟まる)
一四日、池田恒興と同道し、高山右近と中川清秀の先陣争いを制す
(※本論考では触れられていないが、この後に山崎の合戦の記述が続く)
【第二案(五一二号)の記述順】
一二日、池田と同道し、高山と中川の先陣争いを制す。山崎から天神の馬場までの陣取りを定め、富田で一泊。
一三日昼に信孝を迎える
一三日夜に山崎に着陣
(※この後に山崎の戦いの記述が続く)

筆者が指摘する通り、すでに合戦が終結したはずの一四日に先陣争いを制したとする第一案の記述には、明らかな矛盾がある。筆者はこの推敲プロセスから「秀吉の遅参を伏せる意図」を汲み取ろうとしている。しかし、秀吉がここで推敲によって組み入れたかったのは、遅参の隠蔽ではなく、「中川・高山の先陣争いを自分が制したこと」、そして「池田恒興と同道していたこと」のアピールではないだろうか。
そして、第一案の「一四日」という日付は、単なる記述上のエラーにすぎないと思われる。なぜなら、紙幅の都合なのか筆者は触れていないが、実際の案文では先陣争いを制したという記述の直後に、中川・高山の山崎の合戦での活躍が語られているからだ。先陣争いが合戦の前に行われたものであることは、ミスの多い第一案の文脈からでも明白である。
また、どちらの案文にも「陣取りを決めた」という記述はある。つまり、第二案になってわざわざ「陣取り」のくだりを作為的にねじ込んだようには見えない。第一案において、一三日に信孝と会った後、一四日に先陣争い→山崎の戦いという不自然な流れになっているのは、一三日の記述の後に、先ほど触れた「信長から首を撫でられた思い出話」が唐突に入り込み、全体の叙述が分断されたためである。
流れを見る限り、秀吉と対面した際に信孝が涙を流した、というエピソードから連想的に信長の思い出話を挿入した可能性が高い。確かに「一四日」という日付のミスはあるものの、話が一旦過去へ脱線した後に「先陣争い→陣取り→山崎の合戦」と書き進められているため、文章の構造としてはそれほど不自然ではない。
当然ながら、第二案ではこの「額を撫でられた話」は信長生前の時系列へと移動されている。この話はどうしても入れたかった話ではあるようだ。
信孝の川越えが一三日であることは、当日に秀吉・丹羽長秀が連署した副状に「今日三七様川を被成御越」とあることから確定するので、これは誤記とみてよい。
つまり、ミスを直した、もしくは筆者によると遅参を隠すべく整えたらしい第二案でも日付の間違いがある。もちろんこれには写し間違い等の可能性は残る。いずれにせよ、この二通の日付の記述の比較により遅参隠しの意図を見出そうとすることには無理があるように感じられてならない。
山崎の戦いの新説について(上)
二〇二六年七月二十四日 初版発行
https://humaniste.jp/blog/kx7n27avgwk
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本を開いています…
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