学会評
ゆまにすと
第66回日本史関係卒業論文発表会の感想――3つの報告を中心に
学会評
地方史研究協議会では、毎年日本史関係の卒業論文発表会を行っており、二〇二五年度の発表会は四月一九日に駒澤大学で開催された。そのなかで、いくつか関心を抱いた報告があったため、感想をまとめておきたい。
これは学習院大学の田代建留氏による報告である。戦国大名北条氏の財政状況は不明な点が多く、比較的史料が残っている安藤良整に着目して分析している。この研究では、漁村支配についてこれまでの上納制を軸にした解釈ではなく、商品購入という点に注目して検討している。
この報告の意義は、両者の暗黙の了解が存在している場合、基本的に史料に明記されないことが多い支払いについて、西浦地域(伊豆国田方郡)という限定的な範囲ながら、北条氏の商品経済の側面から多角的に考察している点であろう。
先行研究では、北条氏が強圧的に漁村の水産物を無償で獲得し、漁村にとって重い負担になったとする見解が一般的である(盛本一九九七)。しかし、田代氏は北条氏が代金を払っている事例を確認し、漁村から水産物を購入する場合があることを示している。
たとえば、永正一五年(一五一八)一〇月八日付け朱印状(戦北三五)を検討し、北条氏は初代宗瑞の代から、水産物は毎日の上納と臨時購入によって獲得することが定められていたことを指摘している。また、天正一七年(一五八九)八月二六日付け朱印状(戦北三四八九)にみえる北条氏による緊急の大量注文の事例に着目している。これらの事例から、漁村にとって臨時の大量注文は重い負担ではなく、充分に対応可能なものと評価している。
また、漁村は水軍運営費の納入税などに抵抗しており(戦北二一一五、二六一九など)、単に北条氏に従属している立場ではなかったとしている。ほかにも、北条氏は漁村が収税者に法外な「禰段」を課された際、漁村を保護している(戦北九七五)。これらの点から田代氏は、北条氏と漁村は、商品経済を通して結ばれていたことを指摘し、漁村の保護は、漁村が能動的に取引に参加することにつながり、さらに安定的な水産物の確保につながる政策と評価している。
本報告の課題は、検討している地域が西浦地域という限られた場所であり、ほかの漁村ひいては北条家領国全体に適応できるのかというものである。この点については、会場でも疑問があがった。この点は今後、検討していく必要があるだろう。
これは、聖心女子大学の瀬尾智優氏による報告である。文正の政変とは、文正元年(一四六六)に起こった政変で、室町幕府八代将軍である足利義政を支えていた政所執事伊勢貞親が、将軍職後継者に定められていた足利義視(義政の弟)を誅罰しようとしたところ、義視が山名氏と細川氏に助けを求めて避難し、結局貞親自身が失脚した事件である。
この政変は、従来は政治史の観点からの解明が中心であって、社会的動向に関する分野の研究はあまり注目されてこなかった。そこで、今回瀬尾氏は「馬借」に焦点を当てて、文正の政変について再考を試みている。
「馬借」について先行研究では、初期徳政一揆の構成員に、農民以外の馬借や武家の元家臣であった牢人が存在していたこと(早島二〇一四)や室町時代の政治情勢を動揺させる一大勢力となった(榎原二〇〇三)ことが指摘されている。瀬尾氏は、『看聞日記』(応永二五年六月二五日条)や『経覚私要鈔』(長禄元年一〇月二六日条)の記述を基に、「馬借」と「悪党」と「土一揆」は同一視される傾向があったとしている。
従来は、応仁・文明の乱が始まると、足軽という身分の低い歩兵が活躍したことが指摘されるなど(藤木二〇〇一)、「馬借」が傭兵化していったことが言われてきた。瀬尾氏は『大乗院寺社雑事記』(文正元年九月七日条、同一〇日条)などを基に、文正の政変段階で、「馬借」が傭兵となっていることを主張し、応仁・文明の乱における足軽の登場の前提になったとしている。
ただし、すべての「馬借」が「悪党」「土一揆」と同一視されていたわけではなく、「悪党」「土一揆」とは別の意味で使われている場合もあると考えられる。こうした点を考慮せず、一括的に「馬借」=「悪党」=「土一揆」として議論を進めるのは性急であろうという意見も出た。
これは、専修大学の武田侑大氏による報告である。生島足島神社文書起請文とは、長野県上田市下之郷の生島足島神社が所蔵する、永禄九年(一五六六)八月~同一〇年八月にかけて提出された八三通の起請文を指し、甲斐・信濃・西上野など幅広い地域の武士から提出されたものである。
まずは、前提となる政治的な背景を概観したい。永禄八年一〇月、武田信玄の嫡男・武田義信が信玄の排除を企てた。しかし、計画は事前に露呈し、未然に鎮圧された。これがいわゆる義信事件である。この一件で、義信派の中核と見られる飯富虎昌が処断された。その後、信玄は永禄九年九月に西上野を平定している。永禄一〇年八月には、今川方によって甲斐への塩留めが実施されている。そして同年一〇月、義信は東光寺で死去した。
報告者は、起請文の提出背景について、以下の二点を挙げている。
報告者は、起請文の宛所に着目しており、その多くが甲斐の信玄側近武将宛てであることを指摘している。甲斐以外では、西上野の小幡氏関係者に宛てられた文書がある。そのなかには「信実御前」(戦武一一六九)との記述がみられ、報告者は西上野で小幡信実を中心とした武士団が形成されており、家中統制が維持されていたとしている。さらに、報告者は信濃・西上野関係の末端の武士まで含まれている点を重視している。
本報告は、起請文の宛所に注目した点、複数の表を用いてこの起請文を捉えようとしていた点で評価できる。しかし、この起請文は永禄一〇年八月に信玄が北信濃に出陣した際に、同陣していた家臣などから提出されたものであって、報告者はその政治情勢を充分に踏まえられていないのではないかという指摘がなされた。また、私は国衆からも起請文は提出されていることから、家中統制という側面のみではこの起請文を捉えきれないと考えている。
この点について報告者自身も、個々の武士が起請文を提出した理由や、他地域の起請文との比較が十分ではないことを検討課題としている。今後は、起請文を提出した武士の検討を進めることで、生島足島神社文書起請文の性格がより明確になることが期待される。
以上、卒論発表会の中から三つの報告を取り上げ、私の意見を記した。
今回、研究とは一面的な視点からするものではなく、多角的な視点から行う必要があることをあらためて痛感した。卒論では、無意識のうちに視野が狭くなってしまうことがあり、質問時間でもそうした指摘がなされた。今回の報告を、自分の研究の糧としていきたい。
【参考文献】
『第六五回日本史関係卒業論文発表会レジュメ集』(地方史研究協議会、二〇二五年)
榎原雅治『日本の時代史一一一揆の時代』(吉川弘文館、二〇〇三年)
黒田基樹『駿甲相三国同盟』(KADOKAWA、二〇二四年)
早島大祐「一揆と徳政」(『岩波講座 日本歴史第八巻 中世三』岩波講座、二〇一四年)
藤木久志『飢餓と戦争の戦国を行く』(朝日新聞社、二〇〇一年)
盛本昌弘「後北条氏の水産物上納制の展開」同『日本中世の贈与と負担』(校倉書房、一九九七年)
【出典】
『戦北』=『戦国遺文 後北条氏編』(東京堂出版、一九八九年~一九九五年)
『戦武』=『戦国遺文 武田氏編』(東京堂出版、二〇〇二年~二〇〇六年)
第66回日本史関係卒業論文発表会の感想――3つの報告を中心に
二〇二五年五月二日 初版発行
https://humaniste.jp/blog/ncjzeqvvd87
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第66回日本史関係卒業論文発表会の感想――3つの報告を中心に