世界史からみる美術
ゆまにすと
ウィーン分離派とはなんだったのか(4)
世界史からみる美術
世界史から読み解く美術、最初のテーマとして「ウィーン分離派」をとりあげる。第一回では分離派が登場した一九世紀のウィーンの政治的動向について概観した。第二回では、第一回で示したオーストリア=ハンガリー帝国のコスモポリタン主義がウィーンの都市開発にどのように反映されたかをまとめた。第三回では、ウィーン再開発の過程で設立されたオーストリア芸術産業博物館とウィーン工芸学校を中心に、一九世紀末にウィーンで行われた美術教育について解説した。
最終回である第四回では、ウィーン分離派のリーダーであるクリムトを中心に「ウィーン分離派」とはなんだったのか、結論づけたい。
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第一回で述べたように、一九世紀末のウィーンは社会的・文化的変革の渦中にあった。オーストリア=ハンガリー帝国の首都として、ウィーンは帝国の多民族的なアイデンティティを象徴する都市であったが、同時に産業化と都市化の進展によって芸術と文化の新しい形が模索される時期でもあった。その中心にいたのが、グスタフ・クリムト(1862-1918)とウィーン分離派(Sezession)である。
一八九七年に結成された芸術家のグループであるウィーン分離派は、既存のウィーン芸術家組合(Künstlerhaus)に反発し、新たな美術の方向性を求めた。クリムトらの活動から、コスモポリタン都市をめざすウィーンの現状に対して、保守的でイタリアルネサンス中心史観を引きずるウィーン芸術家組合の存在が時代遅れであったことは明らかである。

グスタフ・クリムトは、ウィーン分離派の象徴的な存在であり、その芸術の変遷は分離派の理念を理解する鍵となる。彼は初期にはアカデミックな歴史画家として活動し、ウィーン美術史美術館の階段ホール装飾などの国家的プロジェクトに携わった。このウィーン美術史美術館の建築は、古代ギリシアから一九世紀オーストリアまでの美術を統括するというコスモポリタン都市ウィーンの理想を建築として可視化するものだった。クリムトはこのプロジェクトでエジプトや古代ギリシアを題材とした壁画を描き、古典美術を徹底的に学ぶ機会を得た。
国家プロジェクトに従事していたクリムトだったが、一八九二年に父と弟をあいついで亡くし、その後の数年間は創作の迷走期を迎える。この時期に彼が影響を受けたのが、ベルギー象徴派のフェルナン・クノップフや、英国の唯美主義(耽美主義、審美主義とも。社会道徳より美の享受・形成に絶対的な価値を置く風潮。ホイッスラーの場合は、芸術作品の価値はそれに込められた思想やメッセージではなく、形態と色彩の美にあるとする立場だった)の旗手であったジェームズ・マクニール・ホイッスラーであった。これらの芸術家たちに共通する「輪郭線を抑えた柔らかい筆触」や「西洋伝統以外の美術の積極的な取り入れ」は、のちのクリムトの作風の特徴となる。

一八九七年のウィーン分離派結成後、クリムトは分離派の中心的存在として活動し、一八九八年には代表作《パラス・アテナ》を発表する。この作品は、ギリシア神話の知恵と戦いの女神を描きながらも、古代エジプトの影響を感じさせる装飾性を持っており、クリムトの独自のスタイルが確立されたことを示している。古典古代を題材にするアカデミックな絵画でありながら、細心の考古学的発見にも立脚した描写と、オリエンタルな表現は一九世紀末ウィーンにふさわしい新しい芸術である。

クリムトのもっとも有名な作風は、一九〇〇年代初頭に確立された「黄金様式」である。この様式の特徴は、ビザンティン美術や古代エジプトの影響を受けた装飾性の強い構図と、金箔を多用した華麗な表現にある。この時期の代表作には、《ユディト I》(一九〇一年)、《接吻》(1907-1908年)などがある。

黄金様式の着想の背景には、クリムトが先述したウィーン美術史美術館の装飾に携わった際に接した古代美術の影響があると考えられる。クリムトはエジプト・ギリシア・ビザンティン美術の要素を融合させることで、独自の装飾的様式を確立した。これにより、クリムトの作品は単なる絵画ではなく、象徴的なメッセージを持つ総合芸術の一環となった。またこの独自の様式は、まさしくオーストリア=ハンガリー帝国の建国理念と世紀末ウィーンの理想を体現したものともいえるだろう。
このような様式を確立したクリムトが旗手となったウィーン分離派の理念は、単なる反アカデミズムにとどまらず、総合芸術(Gesamtkunstwerk)の追求にあった。これは、建築・絵画・工芸・デザインなどを一体化させることで、新しい芸術表現を創出しようとする試みである。分離派の活動の中心となったのは、一八九八年に建設された「分離派会館(Sezessionsgebäude)」であり、その正面には「時代にはその芸術を、芸術にはその自由を」というスローガンが刻まれた。
この会館では定期的に展覧会が開催され、一八九八年の第一回展ではクリムトの《パラス・アテナ》が展示された。さらに一九〇二年には「ベートーヴェン展」が開催され、クリムトはベートーヴェンの交響曲第九番を視覚的に表現した《ベートーヴェン・フリーズ》を制作した。この作品は、黄金の装飾や幻想的な人物描写により、分離派の理想を体現するものとなった。

ウィーン分離派は、一九〇五年に内部対立により分裂し、クリムトも分離派を離脱する。しかし、クリムトの作品と分離派の功績は次世代の芸術家、とくにエゴン・シーレやオスカー・ココシュカといった表現主義の画家たちに大きな影響を与えた。また、分離派の理念はウィーン工房(Wiener Werkstätte)へと受け継がれ、工芸とデザインの分野で新たな展開を見せた。さらに、クリムトの装飾的表現は、アール・ヌーヴォーや後のアール・デコの発展にも寄与し、ヨーロッパの芸術界に広範な影響を及ぼした。
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ウィーン分離派とは、単なるアカデミズムへの反発運動ではなく、芸術の自由と総合性を追求した革新的な試みであった。その中心にいたクリムトは、古典美術の伝統を再構築し、装飾性と象徴性を融合させることで、新たな芸術の可能性を開いた。こうした分離派の動きは、単に美術界の動向ではなく、一九世紀に苦境に立たされたオーストリア=ハンガリー帝国と、その都として大きな役割が与えられた都市ウィーンの歴史的・社会的・政治的動向と密接に関わっている。
そしてその先導者たるクリムトの作品も、一九世紀末ウィーンの社会的背景と深く結びついており、帝国の多民族的アイデンティティや都市再開発の理念を反映している。クリムトの芸術は、単なる美的表現にとどまらず、時代の精神を象徴するものであった。
だからこそ、クリムトとウィーン分離派は、モダン・アートの黎明期においてきわめて重要な役割を果たしたといえるだろう。
【参考文献】
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西田兼「ウィーン美術史美術館階段ホールの壁面装飾──クリムトの《古代エジプト》と《古代ギリシア》を中心に──」、島根大学言語文化学科編『島根大学法文学部紀要』第四九号、島根大学法文学部、二〇二〇年
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古川俊英「象徴主義絵画における「宿命の女」をめぐって :ラファエル前派,モロー,クノップフ」、北海道教育大学編『北海道教育大学紀要』第四三巻、北海道教育大学、一九九三年
フランク・ウィットフォード『クリムト』関根秀一/吉岡昌紀/片切頼嗣/越智博美訳、洋版出版、一九九三年
ウィーン分離派とはなんだったのか(4)
二〇二五年三月十四日 初版発行
https://humaniste.jp/blog/t1nja-6itz
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