研究史をひもとく
ゆまにすと
17世紀後半の武家茶道論(1)
研究史をひもとく
茶の湯文化学会では六月八日・九日の二日間、二〇二四年度の総会が行われた。昨年度は、寛永期の茶の湯を捉え直すシンポジウム「江戸の茶の湯―そのイメージの再考―」が開かれ、今年度はこれに引きつづき、「武家相応の茶の湯の成立と展開」として一七世紀後半の茶の湯について片桐石州(貞昌)を中心に武家のなかで儀礼としての茶の湯が確立するこの時期を捉え直すシンポジウムが行われた。
シンポジウムの報告者と論題は以下の通りである。
山田哲也 「武家相応の茶の湯の成立と展開」
谷村玲子 「江戸時代の武家の茶の湯」
八尾嘉男 「江戸時代前期に流祖となった旗本茶人をめぐって」
矢野環 「大名関連名物記と茶会記の特徴分析」
矢ヶ崎善太郎「広島城三の丸の「御囲」と上田宗箇の茶室」
一七世紀後半における武家の茶の歴史については研究の蓄積があるが、これらを体系的に整理し全体的な位置づけを見出すことが現在の研究課題といえるだろう。
本稿では、今大会の報告をふりかえるとともに研究史を紐解き、今回の大会で示された一七世紀後半の武家の茶の湯について考察する。
シンポジウム発表一 山田哲也氏「武家相応の茶の湯の成立と展開」
シンポジウム「武家相応の茶の湯の成立と展開」のはじめに山田哲也氏による基調報告が行われた。まず、谷端昭夫氏の提唱した「武家相応の茶の湯」の概念に基づいて慶長期から寛文期における武家の茶の湯の流れを整理する。
慶長期、千利休が没すると織田長益・古田重然・細川忠興・上田重安などの利休と何かしらのつながりを持つ人々が茶の湯をリードしたと伝えられる。彼らの茶の湯についてのイメージの再考は必要としつつ、彼らが式正御成における「数寄屋御成」規式の確立、「織部格」茶室の普及など武家相応の茶の湯の成立に重要な役割を果たしたと位置づける。
寛永期に入ると小堀正一・佐久間実勝など古田重然と関係の深い人物が将軍の茶の湯「柳営茶道」を形成していったと位置づけられている。なお、徳川秀忠が没すると数寄屋御成は衰退するが、大名の茶の湯はこれ以降も続けられている。前回のシンポジウムでも提起されていたが、今回も武家の茶の湯のあり方について御成以外の側面も解明される必要があることが強調された。
寛文期には片桐貞昌・船越永景らが正一・実勝らに代わる。彼らは徳川家綱への献茶によって武家茶道の指導者としての立場を得ていく。貞昌の茶の湯は石州流として武家茶道の中心として諸国の大名に受容されていった。彼らの茶の湯については近年検討が深められているところであり、今回のシンポジウムもそれらを主題とする報告が中心であった。
これより時代が下ると大名・大身旗本が茶風を牽引することがなくなっていく。一七世紀には実際の点茶などを担当するにとどまっていた茶道役が、以降は茶道師範的な役割を果たすようになっていくとの見通しが示され、茶道役・茶坊主などについての検討の必要性に話が及んだ。
【研究史】寛永文化後期の文化と茶の湯
慶長期から寛文期の文化は、熊倉功夫氏によって寛永文化と定義されている。なかでも、慶長五年(一六〇〇)から元和一〇年(一六二四)までを前期、寛永元年(一六二四)から慶安四年(一六五一)までを中期とし、寛文年間頃を後期と位置づける。
また、熊倉は明暦の末年からを寛永文化の変容期とし、後水尾天皇の没する延宝八年(一六八〇)を寛永文化の終焉と位置づけた。武家茶道においてもこの時期に変容がみられた(熊倉一九八八・谷端一九九九)。
寛永文化中期の武家茶道において大きな影響力を持った人物(佐久間実勝・細川忠興・小堀正一・上田重安など)が一六五〇年頃に没し、片桐貞昌や船越永景などが茶の湯の名人として認識された。彼らは幕府・諸大名の道具収集・数寄屋作事などにおいて助言を求められることによって寛永文化期の武家茶道を牽引した(中村二〇一四・谷端一九九九)。
秀忠・家光がさまざまなかたちで御成を実施し、そのなかに茶の湯を取り入れた一方で、家綱はほとんど御成を行っていない。家綱は老臣をねぎらうため、御三家の就封を送るため、京都所司代の上京を送るための江戸城内での茶会が知られているばかりで、茶の湯のあり方に変化が生じている(佐藤豊三二〇一二・池ノ谷二〇一五・原二〇二三)。
この時期の柳営茶道を考えるための史料として彦根城博物館の「御茶之湯会席帳」が知られる。本書は将軍家茶道を務めたとされる野村氏から井伊家に伝来したものであり、家綱の開いた二三の茶会を記す記録である。なお本書は江戸後期の写本と考えられており、諸記録との校合を要する。管見の限り詳細な分析はなされていないが、今大会で報告のあった片桐貞昌の道具立てと比較し考察すべきものであろう(野村美術館学芸部一九九五)。
また、茶の湯と家綱の関わりでは大老であった酒井忠勝について御成や道具献上などが知られ、『徳川実紀』や酒井家文書中の茶書などを題材にその分析が行われている(深谷二〇一七・石井二〇二三)。
【参考文献】
熊倉功夫『寛永文化の研究』,吉川弘文館,一九八八
野村美術館学芸部「≪翻刻≫彦根城博物館蔵 御茶之湯会席帳」『野村美術館研究紀要』第四号,野村文華財団,一九九五
谷端昭夫『茶道の歴史 茶道学大系―二』,淡交社,一九九九
佐藤豊三「徳川秀忠(大御所時)・家光・家綱の御成」『徳川将軍の御成』,徳川美術館,二〇一二
中村利則「小堀遠州と片桐石州の作意」『講座 日本茶の湯全史 第二巻 近世』,思文閣,二〇一四
池ノ谷匡祐「数寄屋御成の展開と衰退」『史観』,早稲田大学史学会,二〇一五
深谷信子「遠州茶会の客達(その九三)酒井讃岐守忠勝(七)四代将軍・家綱の御成」『遠州』,大有,二〇一七
石井智恵美「酒井讃岐守忠勝の茶の湯」『茶の湯文化研究』第三号,茶の湯勉強会,二〇二三
原史彦「徳川将軍家の御成」『茶書研究』第一二号,宮帯出版,二〇二三
17世紀後半の武家茶道論(1)
二〇二四年八月十三日 初版発行
https://humaniste.jp/blog/wtquiz0rha
ゆまにすと
本を開いています…
17世紀後半の武家茶道論(1)