展覧会評
ゆまにすと
「戦国武将書翰集」の世界(下)
展覧会評
この書状の大意は「再びお便りをいただき本望です。おっしゃる通り、伊予国方面のことについては、来嶋氏が離反したことについて、その方面の戦闘については、私が(伊予方面の勢力と)協力関係にあるので、とりわけ案じています。そうではありますが、援軍を追って遣わし、しっかりと(対応を)申し付けました。敵の城も脆弱であるので、ほどなく落城するでしょう。安心してください。また重ねてご連絡します」である。
天正一〇年六月二七日、本能寺の変で亡くなった織田信長・信忠の跡を継いだ幼少の織田家当主である三法師が成人するまでの名代(家督代行者=暫定的な当主)を決める談合、いわゆる清須会議が行われた。この清須会議の結果、柴田勝家・羽柴秀吉・惟住(丹羽)長秀・池田恒興の四人の宿老衆による談合のもと、政治運営を行うことに決定した。
しかしその後、三法師を手中に置いて後見となった織田信孝と秀吉は対立し、秀吉・長秀・恒興は信孝と対立していた織田信雄を名代に据えた。これに反発した勝家が天正一一年三月に、滝川一益と手を組んで挙兵し、四月に復権を企てる信孝が加わった。この結果として起きたのが、賤ヶ岳の戦いである。この賤ヶ岳の戦いにおいて、本願寺勢力が秀吉軍を支援する動きを見せていたことはわかっていたが、そのトップである教如と秀吉がどのようにやり取りを始めたかはわかっていなかった。今回の書状の発見で、教如と秀吉がやり取りしていたことの裏付けを取ることができた。
余談にはなるが、書留め文言の「恐惶謹言」に注目したい。「恐惶謹言」とは、基本的に格上の人に対して使う表現である。教如の母は公家出身であり、この時点では秀吉よりも政治的立場が高かった。この文言は、秀吉があくまでも織田家に仕える家臣であるという政治的立場を明確に表している。従来は惟任光秀を討った山崎の戦いに、秀吉の天下取りの端緒を求めていたが、近年の研究は小牧・長久手合戦を契機とする見方が強い。今回の書状からも、天正一一年段階で秀吉は天下人の地位を自認していないことがわかるだろう。
天正一四年一〇月一七日、徳川家康は大坂城(大阪府大阪市)で秀吉に出仕して従属した。そして秀吉は「関東・奥両国惣無事」の取りまとめの担当者として家康を選んだ。天正一四年一二月四日には、家康が関東出陣を想定してか、本拠を駿府城(静岡県静岡市)に移している。北条氏にとって秀吉襲来が現実的なものとなったのか、天正一五年正月から行った小田原城(神奈川県小田原市)普請を皮切りに、御一家衆や国衆の領国を含んだ北条領国すべての領主・郷村に対して、臨時の普請役が課された。このとき小田原城以外の城郭も普請が行われており、領国内拠点のほとんどで普請が行われたと推測されている。
こうしたなかで出されたのが、今回の書状である。この書状では、佐倉衆の小田原参府を求めており、惣国防衛体制の一環だと考えられている。この時期氏政が作倉領支配をしていたことは、先行研究で明らかになっており、私は氏政の作倉領(千葉県佐倉市など)支配に関する文書の一つではないかと考えている。
この書状で、義治は隆景に「あのときから連絡が途絶えてしまい、思わぬことです。中国に逗留していたときに色々親切にしていただいたことは、忘れていません。今後とも益々のご指導をお頼み申します。遠方ということでこちらから連絡しなかったことは、私の本意ではありません」と伝えている。永禄一一年(一五六八)、織田信長が足利義昭を奉じて上洛する際、義治は父の義賢とともに、居城である観音寺城(滋賀県近江八幡市)を放棄している。その後、信長と対立して京都を追われた義昭は、天正四年より毛利氏を頼って鞆(広島県福山市)に滞在しているが、義治は義昭を支えるメンバーの一人であることはわかっていた。しかし、その後の動向は不明な点が多く、義治は後に秀吉に仕えることから、天正一五年に義昭が帰京した際、行動を共にしたことが推測されていた。本史料の発見により、義治は義昭と行動を共にした可能性が高くなった。この時期の義治の動向が伺える貴重な史料である。
この書状の概要は「去る一二日、飛脚にて手紙を出しましたが、届いていますか。何度も手紙でやり取りをしていますが、遠方なのできっと届かないだろうと思っています。そちらの状況は、きっと落着するだろうと推測しています。京都も落ち着いています。(あなた様も)速やかに都合をつけて、ご上洛をお持ちしています」である。状況から奥羽仕置のことについて、重茲(羽柴氏家臣)が忠勝に尋ねている文書だと考えられている。
この書状のおもな内容は、「御台所に小西新右衛門を雇って、遣わしました。あなたがいらっしゃるときに引き合わせ、 御膳のことについて、よく相談して準備を進めることが大切です。詳しくは西藤が伝えます」である。「御膳」については、闕字(対象の人物に敬意を示し、直前の一字を空けること)がみられ、羽柴秀吉と推測されている。また小西新右衛門は、伊丹地域で酒造業者として大成した小西新右衛門と同じ名前であり、小西家の戦国後半の当主である可能性がある。
この書状で義隆は杉原(備後国衆)に、「庄四郎と三村家親(ともに備中国衆)との間で不和が発生しているのは、よろしくありません。このことについて、糸永加賀守を(三村家親の居城である)成羽城へと派遣しました。(あなたも)庄四郎に対し、意見を伝えることが大切です」と伝えている。
従来は猿掛城(岡山県倉敷市・矢掛町)を本拠とする庄為資が、天文二一年五月以降に尼子氏の調略に応じて、大内氏・毛利氏の援助を受けていた家親と激突したと考えられてきた。この合戦は、三村氏飛躍の画期となる猿掛城合戦であり、近年の研究で天文二一年から永禄二年(一五五九)までの約七年に及ぶ合戦であったことが明らかになっている。今回の書状が発見されたことにより、大内義隆の自害(天文二〇年八月)以前の段階で、三村氏と庄氏の対立が生じていたことが判明した。三村氏はその後、大内氏方の援助を受けていることが確認されるので、庄氏は三村氏に対抗するために大内氏側から離反し、尼子氏方についた可能性がある。
なお、全一五点の書状の内、この書状だけ写となっている。これは花押の大きさが異常であるため、村井祐樹氏が写ではないかと考えたことが理由である。たしかに他の書状の花押と比べてみると、倍以上の大きさで書かれていた。ただ藤井達也氏は、戦国大名は自身の権勢を示すために花押を大きくする傾向があることを理由に、原文書ではないかと説明していた。どちらにせよ、当時の状況と比べて内容的に大きな齟齬はなく、原文書に限りなく近い文書であることは間違いないようである。
以上「戦国武将書翰集」全一五点を紹介した。今回の書状の傾向としては、従来推測されてきてはいたが、史料がないため確定できていなかったできごとなどが、確定されることとなる史料が多いことは周知の通りである。あまりよい表現ではないが、書状の多くは中身があまりない史料であることが往々にしてある。もちろんその書状は貴重なものではあるが、全一五点すべてが中身の詰まったかなり貴重な史料ということは、とても珍しいことである。今回の書状は一点を除き、一四点が原文書と判断されたが、その一点も中身は原文書に近いものだと判明した。また、今回の展覧会の図録である『戦国武将書翰集』は非売品であることは残念であったが、藤井達也氏の話によると、全国の図書館などに発送予定されるそうなので、さらなる研究の進展に期待したい。
※今回は主に、水戸市立博物館で配られていた「「戦国武将書翰集」の釈文と大意」というプリントを参照した。その他の参考文献は以下の通りである。
【参考文献】
天野忠幸編『戦国武将列伝八 畿内編【下】』(戎光祥出版、二〇二三年)
黒田基樹『小田原合戦と北条氏〈敗者の日本史一〇〉』(吉川弘文館、二〇一三年)
柴裕之編『図説 豊臣秀吉』(戎光祥出版、二〇二〇年)
丸山裕之『図説室町幕府 増補改訂版』(戎光祥出版、二〇二四年)
光成準治編『戦国武将列伝九 中国編』(戎光祥出版、二〇二三年)
「戦国武将書翰集」の世界(下)
二〇二五年七月四日 初版発行
https://humaniste.jp/blog/xx-2gjxayc5
ゆまにすと
本を開いています…
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